市報にいがた
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インターネットでお届けする「市報にいがた」 / 平成15年7月27日 第1900号

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    1900号4面

◆花街の伝統を受け継ぐ
 古町芸妓

 古町は、料亭・割烹の並ぶ老舗の町。新潟の芸妓は、昔から京都・祇園と並び称せられ、今もなお全国に名をはせています。
 この道49年という、古町芸妓の世々子姐さんは「三味線や舞、そして会話とお酌を通して、お座敷を和やかにし、お客様に楽しんでいただくのが私たちのおつとめですね」と笑顔で話します。
 最盛期には300人を超えた古町芸妓の数は、現在32人。昭和62年には花街の伝統を受け継ごうと、市内の企業などの出資により、芸妓の養成・派遣を目的とした全国初の株式会社「柳都振興」が設立されました。
 同社の田中支配人は、若い社員芸妓"柳都さん"たちのお母さん的な存在。「初めて花柳界に入る子たちだから、不安は山のよう。会社の中だけは自分の家だと思って甘えていいと言っているんですよ」と、公私にわたって柳都さんをサポートしています。
 「地元の人たちにこそ、花柳界をもっと身近に感じていただきたいですね」と話す世々子姐さん。昨年は、寄居中の生徒20人が総合学習の一環として世々子姐さんのもとを訪れ、踊りのポイントや三味線の音色を味わい、花街文化に触れました。
 また、老舗の味わいや芸妓の舞などを気軽に楽しめるよう、夏の"食の陣"を9月まで開催しています。「私たち芸妓は一生懸命芸事に励んでいますので、この機会に雰囲気を味わっていただければ」と世々子姐さんは語ってくれました。


◆堀を介して交流を
 堀割再生物語プロジェクト実行委員会

 かつて新潟のシンボルだった堀について知り、魅力あるまちづくりにつなげようと、堀割再生物語プロジェクト実行委員会が活動しています。
 「春は西堀沿いの桜を愛でたり、夏は柳の下で夕涼みをしたり…堀端には人が集まっていたなぁという印象が強いんですよ。堀を介して新たな交流の輪が生まれることを期待しているんです」と会長の川上伸一さん(44)は語ります。
 「堀が無くなって40年になります。堀の存在が忘れられてしまう前に、信濃川や日本海の生命力を感じられる親水空間をまちなかに作りたいですよね」と語る川上さん。若手商店主たちが中心となった「明日の古町を考える会」などが、自分たちのまちのよさを見つけていこうと始めたこの活動は、学生や市外在住者なども含む65名ほどに広がりました。
 ワークショップや勉強会を重ね、堀が消えた歴史や再生に向けた活動を話し合ったり、実際に埋め立て道路を探索するなど、さまざまな視点から堀割再生の可能性を探っています。
 今年度は、市民の皆さんに活動を提示しようと定期的に講座を開催しており、次回は8月30日に開催する予定です。
 「これからの新潟を担う子どもたちと話し合ったり、堀を掘るための交通体系も考えたい」と川上さんが話すように、同会の活動はさらに広がっていきそうです。


◆縁の下の力持ちを目指して
 新潟下町をよくする会

 黄色いかれんな月見草が揺れる砂浜――。「新潟下町をよくする会」では、そんな風景をよみがえらせようと、月見草の一種、オオマツヨイグサを西海岸公園に植えています。
 「懐かしい風景を取り戻すため、少しでもお手伝いできるなら」と語るのは、同会会長の本間恒夫 さん(65)。小針海岸で活動中の団体に賛同し、平成9年から植栽を始めたそうです。
 また同会では、毎月入舟地区の公園の管理清掃を行っています。「荒れ果てていた空き地が、今では自慢の公園ですね」と幹事長の吉江常浩さん(59)は話します。
 同会は、下が好きだというメンバー40人余りで結成された会。環境美化活動が評価され、13年度の県環境賞を受賞しました。「地域の『縁の下の力持ち』になれたらと願って活動しています。いわば『なんでも屋』でしょうか」と本間さんは顔をほころばせます。
 「下町も変わってきましたよ。住んでいる私たちが、風景と人情を守っていかなければ」と語る吉江さん。「下町探索の際には、にっこり笑顔を交わし、人情も味わってもらいたいですね」とも話してくれました。


◆新潟北部開発協議会
 “よみがえれ!わが町”

 昭和62年の創刊以来、16年間下町の情報を伝えている「よみがえれ!わが町」。隔月発行の手書き新聞を発行しているのは、新潟北部開発協議会です。
 同協議会の活動は、大正時代から(当時は別名称)。豊かで幸せな北部地区づくりを目指し、4月現在で51町内が加入して活動しています。
 同協議会青年部部長の佐藤豊さん(52)は、新聞発行のきっかけを「下はすてたもんじゃないんだぞと発信して、地域の誇りになればって始めたんさ」と話します。
 名店紹介「わが町のうんめえもん」、名物人紹介「わが町のこんげ人」など、下町以外の人も楽しめる情報が満載。けれど「新聞は、町をいい方向に変えていく活動のひとつにすぎないんですわ」と佐藤さんは語ります。
 灯ろう流しの伝統を伝える「北部開発・川祭り」など住民同士の交流を深める行事を実施したり、地域づくりのための勉強会やアンケート調査を実施したりと、地域をよりよくしようとする活動に終わりはありません。
 「形になりにくい地道な活動だよ。人のネットワークができてきたのが財産かな」と佐藤さんは目を輝かせていました。


◆新潟島を生み出した
 “関屋分水路”

 関屋分水路は、信濃川が最も海に近づいた地点から水路を掘り、日本海へと水を流しています。
 西蒲原や亀田郷など、低湿地帯で洪水の多かった地区では、信濃川を河口付近で分けようとする計画が江戸時代から何度も立てられてきました。明治44年には「関屋堀割」が海まで掘られましたが、この堀は数年で埋まってしまいました。現在の「堀割町」・「関屋堀割町」の地名は、関屋堀割に由来するものです。
 現在の関屋分水の具体的な計画は、信濃川が運ぶ土砂から新潟港を守るために始まりました。昭和39年に国から認可された計画は、新潟地震による一時棚上げなどを経て、43年5月に起工。通水までの4年ほどの間に、平島から関屋浜まで約1・8キロを掘る大工事が行われました。
 47年8月10日の関屋分水の通水――。これに伴い、日本海・信濃川・関屋分水路に囲まれた「新潟島」も誕生したのです。

 関屋競馬場

 昭和30年代まで、関屋地区には関屋競馬場がありました。その歴史は古く、第1回目の競馬は明治41年9月に、松林に囲まれた1マイル(約1600メートル)馬場を使って開かれたといいます。
 軍馬の改良のために有用であると始められた競馬は、毎年春秋の2回開催され、家族だんらんを兼ねて、多くの市民に親しまれました。競馬町行きのバスが走り、競馬場正門へと続く道には、観客たちが列を成して歩く姿が見られました。
 しかし、関屋分水予定地内の住宅の移転先にするため、昭和39年12月をもってその歴史を閉幕。40年5月に、本市東部と豊栄市笹山にまたがる現在地へと移転しました。
 かつての記憶を留めているのは、関分公園の一角にある碑と、踏切や店の名前。そして、夏の新潟競馬開催時に行われる「関屋記念」のレース名が、往時をしのばせています。


◆関屋競馬場の記憶

まつあをく
はろけきばばを
はやてその
こまのかけしも
たれにかたらむ


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